現代の歴史家の証言

H.G.ウェルズ 
  「イエスの生涯と教えとに関するわれわれの知識の唯一の直接的な源は、四福音書である。四福音書は、すべて一致して、ひじょうにはっきりした人物の肖像をわれわれに与えている。して見ると、われわれはどうしても語らねばならない、・・『ここに一人の男がいた。このことは作りごとではありえない』と。」(「世界史概観」上、H.G.ウェルズ著、長谷部文雄、阿部知二訳、岩波新書、1966年、169ページから)

高等学校の世界史の教科書  
 「、、、古くからユダヤ教が信じられていたエルサレム付近は、アウグスト時代にローマの属州と成った。この頃ここにイエスが生まれた。彼は階級や貧富の差を越えた広い愛を説き、父なる神を信ずるものは皆等しく救われて神の国にはいることが出来ると主張した。イエスにしたがうものは、彼を神がつかわした救世主(メシア)、すなわちキリストとしてあがめた。しかし選民主義を否定する彼の新しい教えは、そのころ形式だけにとらわれて堕落していたユダヤ教を激しく攻撃するものであったため、彼を憎んだユダヤ人は、ローマに反逆をくわだてるものとして訴え、その結果、イエスは十字架の刑に処せられた(30年ごろ)。」 標準世界史 東京大学名誉教授 村川堅太郎(以下4名)著 山川出版社 1972 

弓削達(ゆげ・とおる)   
「、、、さて、歴史家は空想や想像によって歴史を書くのではない。事件を直接に見た人の証言とか、その証言をもとにしたいい伝えや文章、あるいは事件の当事者の言葉や書いたものを材料にし、それを「史料」として事件の経過や関連や意味をあきらかにするのが歴史家の仕事である。そのばあいもちろん証言などの「史料」をうのみにすることはない。ひとつの事件について、いくつものくいちがった証言があることがしばしばであるが、そうしたばあい、それらのくいちがった証言を批判的に検討して、ひとつの事実をあきらかにしようとする。
そうした批判的検討にあたって、しばしばひじょうに有効な機能を果たす基準がある。それは、ある事実を事実として認めることが不利であるような立場にある人びとが、その事実を事実として認めるか暗黙の前提にしているばあい、あるいは積極的に否定していないばあい、われわれはその事実を疑いえない事実として考えてもよい、という基準である。
これまでイエスの生涯を書くにあたっても、このような基準にしたがって書いてきた。そこには、ラザロの復活のような今日の自然科学的な常識には説明しにくい事件があったが、それらのいわゆる奇跡にしても、敵もまたそれが事実であることを認め、その事実性の承認のうえにたってつぎの行動を起こしているかぎり、それらのいわゆる奇跡に説明や証明を加えることなく、そのまま単純な事実として記してきた。
   イエスの生涯には、このように説明や証明を加えることはできないが、しかしそれを事実として前提しないと、前後の関連があきらかにならないような不思議なできごとがたくさんあった。ただたんに当時のユダヤがおかれていた悲惨な状態によってだけでは、説明しきれないある主体的な力が、イエスの言行のなかにあって、それが運動を熱狂的なものにまで高めたのである。そうした不思議なできごとの最大のものは、最後のものであった。それはイエスの死後起こった。」 (『世界の歴史』河出書房、第5巻「ローマ帝国とキリスト教」弓削達(ゆげ・とおる)著,290、291ページから)

聖書の記録の歴史的真実性は、偏見のない歴史家の批判的検討に十分耐え得るものです。

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