人間の知恵と神の知恵

「亀の甲より年の功」の諺どおり、普通、人は年齢を重ねるにつれ多少なりとも愚かな失敗を犯さなくなります。文化の違いはありますが、これは各国共通の真理でしょう。しかし、人間の知恵は、「悪知恵」という言葉があるように自己中心的にに偏りがちです。次の聖句を読んでみましょう。

あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。 しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。 そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。 ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。 (ヤコブ3章13節ー17節)

人間の知恵の基準はどこにあるのでしょうか。非常に簡単にいえば「自分を人より高める、自分の損にならないようにする」かどうかがボーダーラインになります。つまり自分の損になるようなことばかりしている人は、知恵がないということになります。向上心をもつのは良いですが、それが行き過ぎると他の人に対してねたんだり嫉妬心を覚えてしまいがちです。実際、それが人間の知恵の現れです。しかし、神の知恵は純粋な動機によって実践されます。自分を危険や愚かな失敗から守るだけではありません。いつも、他の人を敬う気持ちを忘れません。他の人と比べてねたんだりすることも必要ないのです。いつも愛と柔和に満ちた神の知恵に触れてみて初めて分かる、言葉では説明しきれない実感があります。神の知恵は、神の愛に現れています。貴方を愛してやまない神の愛が、貴方の心にじわじわと月日をかけて染みてきます。
神の愛は、私たちの愚かさ、自己中心的な愚かさを明白にしてくれます。だから逆に神の知恵を知るために自分の愚かさを認めましょう。

だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、また、/「主は知っておられる、/知恵のある者たちの論議がむなしいことを」とも書いてあります。(1コリント3章18節ー20節)
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。 ・・・ 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。(1コリント1章19節ー28節)

神は私たちに心よりへりくだりなさい、謙虚になりなさい、人のために仕えなさい、敵を愛しなさい、自分を捨てて十字架を負ってキリストについていきなさいと教えています。自分の命、自分の父母、子供よりもキリストを愛しなさいとも教えています。教えている本人、神の子であるキリストは自ら犠牲となって十字架上で死なれたのです。これが人間によっては愚かなことに聞こえるのです。ところが、人間にとって愚かなことでもそれは実は神の知恵なのです。神の子であるキリストが私たちの罪のために死なれた、犠牲になられたーこれが聖書の言葉です。つまり、聖書の言葉に従う人は、人はもはや自分のために生きるのではなくて、神のために生きるようになるのです。今日も神の恵みを存分に受けてください。

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