神仏と日本人の宗教

世界中どこに行っても神聖とされる像があり、それを拝んでいる人たちがいます。この現象は日本には限りませんが、日本ではすべての神仏の対象になっているようです。
 
お地蔵さんからお寺の仏像、神社に祀られているすべての物が礼拝の対象になります。割り箸供養というお祭りがある地方にあります。使い終わった木の割り箸を燃やして供養すると聞きました。さらに日本には相撲の神様、野球の神様から学問の神様、安産の神様、様々な神様がいるのです。日本人は非常に科学的な見識を持っていますが、同時に非常に迷信的でもあるのです。不思議な国民性でもあると思います。わたしはお寺の住職と親しくさせていただいており、彼の信仰に敬意も持っています。しかし、わたしは像を礼拝することは、人間の本来のあるべき姿ではないと考えています。次の聖句を読んでみましょう。

偶像を形づくる者は皆、無力で/彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。
無力な神を造り/役に立たない偶像を鋳る者はすべて
その仲間と共に恥を受ける。職人も皆、人間にすぎず/皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。
鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが/飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。
木工は寸法を計り、石筆で図を描き/のみで削り、コンパスで図を描き/人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り/神殿に置く。
彼は林の中で力を尽くし/樅を切り、柏や樫の木を選び/また、樅の木を植え、雨が育てるのを待つ。
木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め/一部を燃やしてパンを焼き/その木で神を造ってそれにひれ伏し/木像に仕立ててそれを拝むのか。
また、木材の半分を燃やして火にし/肉を食べようとしてその半分の上であぶり/食べ飽きて身が温まると/「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。
残りの木で神を、自分のための偶像を造り/ひれ伏して拝み、祈って言う。「お救いください、あなたはわたしの神」と。
彼らは悟ることもなく、理解することもない。目はふさがれていて見えず/心もふさがれていて、目覚めることはない。
反省することもなく、知識も英知もなく/「わたしは半分を燃やして火にし/その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。残りの木で忌むべきものを造ったり/木の切れ端を拝んだりできようか」とは言わない。
彼は灰を食らい/惑わされた心は、その道を誤らせる。彼は自分の魂を救うことができず/「わたしの右の手にあるのは偽りではないか」とすら言わない。(イザヤ44章9節ー20節)


ほとんど日本人は神仏一体の宗教環境で育てられてきています。そのことについて疑う余地もなく、お寺と神社でお参りをして教会で結婚式も出来るのです。しかし、今一度考えてみませんか。自分が祈っている仏像に何の力があるのでしょうか。真実の神は、わたしたち人間に「忘れられた故郷」、神の下に帰りなさいと呼びかけています。いっしょに聖書、神の言葉を学び真実の神がどんなお方か知りましょう。

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