祈りとは?

1.個人的な祈りの重要性(マタイ6:5-8、マルコ1:35)
クリスチャンの生活の中で一番大切であるにもかかわらず、クリスチャンが一番怠りがちなことがあります。それが祈りです。礼拝に出席して集会の中での祈りだけで満足してしまうクリスチャンは少なくありません。 しかし、イエスは個人的な祈りの重要さをはっきりと説いています。祈る時は、戸を閉じて誰も見ていないところで祈りなさいと命じています。この教えをその言葉どおりに実践することも良いと思いますが、(主イエスが神のことばを伝え始めた時、おそらくそのような特別な個室は持っていなかったでしょう。主イエスは、早朝、誰もいない所で祈るのが習慣をもっていたようです。)この教えのポイントは神への祈りをプライベ-トに持ちなさいという点です。 個人的な祈りは、慣習的な食事前の祈りや集会で行われる公の祈りとはまったく異なる性質を持っています。食事前の祈りでは、特に日々の肉の糧に感謝します。もちろん、霊の糧にも感謝しますが、祈りの焦点は食事への感謝です。集会での祈りは、教会全体として神を礼拝して教会全体の希望や悩みを神に打ち明けます。それに対してプライベ-トな祈りは、祈祷している人のニ-ズや悩みを反映します。それゆえ、祈りにおける心の叫びも違います。 クリスチャンは祈りを通じて神を礼拝しますが、同時に個人的な悩みや思い煩いを告白するのです。そんな時にも神は祈祷者の悩みの告白を聞いてくださるのです。神は私たちひとりひとりの髪の毛の本数さえ知っています。また神は、私たちひとりひとりが違ったニ-ズを持っていることを知っていますが、各々が神の子供として祈り求めることを望んでおられます。

2.祈りを怠る理由
この大切な祈りを怠る理由は様々だと思いますが、大きく分けて4つ考えられます。 (1) 祈りが、人間にとって不自然な行為に思える時はないでしょうか。アダムとエバが罪を犯して以来、人は「頼りになるのは自分自身しかいない。自分の利益を守りなさい。」と教え込まれてきました。その結果、人は自己中心的になり、他の存在に自分を委ねることが非常に難しい存在になってしまったのです。それゆえ、クリスチャンになっても、人は神により頼むより自分の知恵や力に頼ってしまうのです。 (2) 祈りがどれほど重要か理解していない-これは非常に単純明快な答えです。祈りの重要性を理解していないゆえに祈らないということです。祈りが礼拝の基本的な形であり、祈りによって日々の礼拝が始まることが十分に理解できていないからだと思います。クリスチャンは日々礼拝することを求められますから、祈ることも求められます。さらに個人的な祈りを通してクリスチャンは神のみこころを求め、日々の生活でクリスチャンとしての生きる力を与えられるのです。 (3) 教会で個人の祈りの重要性を取り立てて教えていないではないかと私は思います。具体的にどのような祈りの生活をしたら良いのかを教えていないのが現状ではないでしょうか。結果的に新しいクリスチャンの祈りは成長しないのです。 (4) ある人は、祈っても何も変わらないと思っています。祈っても生活に何も変化が見られないと思って、祈りをやめてしまうことが多いようです。しかし、このような人は祈りの本質を誤解していることがほとんどです。
祈りを怠る典型的な例としてKさんの告白があります。「私はクリスチャンになりたての頃、聖書を読み祈るように勧められました。聖書はすぐに読み始めましたが、祈りとなるとまるで雲をつかむような感じで何から祈っていいのか、どのように祈っていいのかも分かりませんでした。祈りそのものが何なのかも知りませんでした。しばらくオウム返しのごとく祈りの言葉を唱えていましたが、まったく無意味だと思いやめてしまいました。」 多くの方々がKさんと似たような経験をされているようです。一般的に聖書を読むのは祈りより入りやすいと思われます。それは「聖書を読む」場合、具体的な対象物がありますが、祈りの場合、その概念自体が非常に抽象的です。祈りに対する答えがあるかどうかも非常に抽象的なために、神様が与えてくれている答えに気づかずに祈りをやめてしまうのです。
多くの人たちは、無意識にですが、天の神に自分たちの願いや希望をかなえてくれるサンタクロ-スのようなイメ-ジをダブらせて考えています。または日本古来の御利益宗教によって影響されているかもしれません。いずれにせよ、自分の願いを叶えてくれなければ祈っても仕方がないと感じはじめ、そのうちに日々の祈りをやめてしまうのです。その結果として「神を礼拝する」という祈りの基本からかけ離れてしまいます。
もうすでに祈りの習慣を持っていらっしゃる方がいれば、祈りのリストを項目別に分けてみましょう。神への感謝と礼拝、自分自身、身近な人々(教会員、自分の家族)、仕事上などで利害関係がある人々、それぞれどのくらいの割合で祈っているでしょうか。イエスは敵を愛し敵のために祈りなさいと教えています。神が敵を祝福するように祈りなさいと教えているのです。敵が滅びるように祈りなさいとは教えていません。ところが、実際の祈りの生活を見ると逆になっていることに気づきます。

私がある方のために祈っていることがありました。その方は私と敵対するような方だったので、私はその方のために祈りました。ところがいつの日か、私の祈りは、「Aさんが自分の間違いに気づきますように」と自分勝手な祈りに変わってしまいました。自分の視点からしか見えない「盲目的な祈り」になってしまったのです。Aさんと私の心や考え、すべてをご存知の神に委ねることなく、私は人間的な肉の知恵によって自分自身に語りかけていたに過ぎません。これは聖書が教える祈りではありません。聖書的な祈りは神に語りかけ、感謝して礼拝して、悩み事や思い煩いがある時、神の知恵に委ねて解決を願うのです。

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