どのように祈り、どんなことを祈るか(マタイ6・9‐13、ルカ11・1‐13)

では私たちはどんなことを祈ったらいいのでしょうか。主イエスはクリスチャンにきちんと手本を示してくれています。主の祈りはマタイ6・9‐13とルカ11・1‐13に出てきます。マタイに書かれている主の祈りは、省略せずに書かれていると思われます。そこでここではマタイマタイ6・9‐13を参照しましょう。
(1)礼拝。 まず「神は天にいらっしゃる方」であることを告白することから始まります。つまりこれは礼拝の形になるわけです。この罪ある世で生きているクリスチャンと天にいらっしゃる神との対比になります。クリスチャンは罪に汚れているのに対して、義なる聖なる神が天にいらっしゃり汚れ一つないことを思い起こすのです。クリスチャンは被造物ですが、天の神は創造主です。天地万物を創造して今なおすべてを支配しているお方なのです。ここから祈りは始まるのです。
(2)神。 父なる神のひとり子である主イエスは天地万物が創造される前から、父なる神といらしたのです。主イエスは、罪の贖いのために父なる神によって遣わされました。厳密な父と子という関係から言えば、本来、神を父と呼べる方は主イエス・キリストだけです。しかし、哀れみ深い神は、主イエスを信じる者に神の子どもとしての特権を与えたのです(ヨハネ1・12)。さらに神は信じる者に聖霊を神の子どもの証印として与えたのです(エペソ1・13、ローマ8・15)。この理由から、クリスチャンは神に「父なる神」と呼びかけることが出来るのです。
(3)私たちの父なる神。 主イエスがマタイ6・9で教えているように祈りは個人的なものである  ことをここまで強調してきましたが、祈りが自己中心的にならないためにも忘れてはならないこと があります。神はすべての祈祷者の祈りを聞いているということです。一人のクリスチャンが「私 の神よ」と祈る時、他のクリスチャンも同様に祈っていることを忘れてはなりません。主イエスは、「私たちの」という言葉を用いることによって、この点を強調しているのだと思います。
(4)御名があがめられますように。 この意味は、神があがめられますように、と同じ意味です。神がほめたたえられるように祈ることは、クリスチャンの祈りの基本です。自分自身を高めるような自己中心的な祈りではなく、神の栄光に焦点を置く必要があります。この表現には、旧約聖書の背景がありますので説明しておきます。旧約時代には名前には特別な意味がありました。当時の人の名前には、その人の人格や生まれた環境を示すものがあります。旧約聖書での神の契約の名前はヤウェーです。(新約聖書での契約の名前は、イエス・キリストです。)神の名前、ヤウェーは、永遠の存在を示す意味を持っています。つまり、天地万物が創造される以前から、また遠く未来においても永遠に存在されるという意味をもっています。ですから旧約聖書では、主の御名ヤウェーをみだりに唱えてはならない(日本風に言えば主の御名を粗末にしてはいけない)と教え、主の御名の聖性を説いています。
(5)御国が来ますように。 この祈りと「みこころが天で行われるように地でも行われますように」の意味は基本的に同じです。御国(神の支配)があるところには神のみこころが行われます。この祈りには3つの段階があります。第一段階が祈祷者自身の人生の中で、第二段階が教会の中で、第三段階がこの世の中でです。「神のみこころが行われますように」とは、自分自身が神の教えに従って生きていけるようにという祈りです。まず、その祈りのためにクリスチャンは神の御前でまず自分の生き方、動機、思いを吟味してみる必要があります。つまり、これが神への罪の告白です。よく礼拝の中での祈りや祈祷会の中で「すべての罪を赦してください」という祈りをされる方がいます。公の場であり、特定の罪を告白するのは難しいと思いますが、この祈りのパターンはプライベートな祈りに適用は出来ません。少なくともプライベートな祈りではすべての罪、誘惑、すべての思いや感情を神にさらけ出す必要があると思います。神はあなた個人との関係を求めています。罪は人それぞれによって違います。誘惑も違うでしょう。だからこそ、クリスチャンはその思いや感情や誘惑を神にさらけ出し、「私を変えてください。あなたのみこころが行われますように。」と祈るのです。同様に、教会の兄弟、姉妹のために祈りましょう。教会の中で神のみこころが行われないことほど悲しいことはありません。ある特定の兄弟や姉妹、長老や執事のために祈るのもこの時です。教会の働き人が増し加えられるように祈りましょう。また世の中の罪や混乱を見て世界平和のためにいのるのもこの時です。聖霊なる神の働きにより世の罪があらわにされ、人間が神に立ち返るように祈りましょう。
(6)日ごとの糧。 1世紀の社会では、雇われ人は月給制ではなく日給制で給料をもらい、産業は農業中心であり日々の作物の出来に頼っていました。この祈りは当時の人々にとってはわかりやすかったと思います。しかし、その文化的背景を差し引いても日々の祈りの重要さはこの祈りから理解できます。クリスチャンは、日々、神の恵み、日々の糧、霊的な糧を頂きながら生きているという自覚が重要です。
(7)負いめをお赦しください。 この聖句は誤解をされやすいので注意して考えてみましょう。新改訳の翻訳では「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」と訳されています。負いめは、言うまでもなく罪を指しています。この翻訳ですと、クリスチャンが他の人の罪を赦した結果として、神はそのクリスチャンの罪を赦す、と解釈されがちです。この解釈では、神の罪の赦しは、神の恵みによるのではなく、そのクリスチャンが他の人の罪を赦したか否かにかかってしまいます。事実、この「罪の赦しの構図」を主張する学者もいます。しかし、他の人の罪を赦さないクリスチャンはそもそも本当の意味で悔い改めていないのです(マタイ5・14‐15、18・23‐35)。ゆえに神はその赦さないクリスチャンの罪を赦すことが出来ないのです。むしろ、クリスチャンは「自分が他の人の罪を赦したように(赦したからではなく)主よ、私の罪を赦してください。」とへりくだった態度で祈ることが求められているのだと思います。クリスチャンは他の人の罪を赦す同じ尺度で赦されるのだと主イエスは言っているのだと思います。(注・この聖句の翻訳に関してだけ言えば、新共同訳及び口語訳の方が主イエスのみこころを誤解なく伝える訳をしていると思います。)
6・12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください(口語訳)。
6・12 私たちの負いめをお赦しください。 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました(新改訳)。
6・12 わたしたちの負い目を赦してください、 わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように (新共同訳)。
(8)試みに会わせないで、悪からお救いください。 クリスチャンは「今日一日、悪魔の策略に陥らないように」、と祈るべきです。この祈りは、あたかも神がクリスチャンを試みに会わせるかのように解釈されがちですが、強調する個所はこの聖句の後半部分です。悪魔はいつもクリスチャンを狙っています。その悪魔の策略、つまり試みや悪から守って下さい、とすべてを支配している、天地万物を創造された神に祈るのです。

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