祈りは信仰の裏付け(ヤコブ1・5‐8)

主イエス・キリストによるバプテスマを受けた時、あなたは信仰告白をしました。主イエスが神のひとり子であり、あなたの救い主と信じ、主イエスをあなたの人生の師として信じる事を告白したのです。実は、その時から祈りの生活は始まっているのです。祈りは信仰の裏付けです。信仰が伴わない祈りは、単なる自己暗示または空しい戯言に過ぎません。クリスチャンは神を信じるから神により頼みます。唯一の神だけがこの天地万物を支配していると信じているから祈り礼拝するのです。 祈りと信仰の関係は、紙幣の裏表のようなものです。紙幣の裏が消されていては紙幣としての価値はありません。祈りも同じように信仰がなくては役にはたちません。信仰がなければ祈りが神に聞かれるはずもないのです。また祈りがない信仰生活も空しいものです。ちょうど気が抜けたコーラのようなものです。まずくて飲めないので捨ててしまうでしょう。祈りがない信仰も役にたちませんから、時が経つにつれて本来の信仰も失われてしまいます。もしあなたが神への信仰をもっているのなら、祈りによって日々神への感謝、礼拝をすべきではないでしょうか。

神のみこころを求める祈り(マタイ6・33-34、マタイ7・7-11、ルカ11・9ー13、1ヨハネ5・14)

 

 もうすでにお分かりかと思いますが、祈りはクリスチャンにとって成長するための入り口です。神の御国と義を求めるための手段とも言えます。つまり祈りを通してクリスチャンは神のみこころを求め、日々、生活の霊の糧を神から頂くのです。しかし、クリスチャンがここでサタンの罠にかからないために注意しておくべきことがあります。それは日々の祈りが自己中心的に傾き、肉欲が求める物質的な祈りに陥ることがあります。御利益宗教的な祈りは聖書的な祈りとは言えません。主イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます。」と教えています。その他多くの聖句がこの真理を教えています。しかし、聖書はクリスチャンが欲するものは何でもかんでも与えられると教えているのではありません。「何事でも神のみこころにかなうこと」は与えられると教えているのです(1ヨハネ5・14)。ゆえに祈りを通して、クリスチャンは自分自身の動機は何なのかを吟味する必要があります。自分自身の動機は肉的なものか、霊的なものか、神のみこころにかなっているのかを自問自答することが求められます。  「求めなさい」という事に関してもう一つ重要なことは、クリスチャンが求めるものは何なのか、という問題です。ルカ11・13を読むと主イエスが教えている「求めなさい」という言葉の本質の意味が理解できます。クリスチャンが求めるものは、聖霊、聖霊の力、つまり霊的なものなのです。しかし、クリスチャンは肉の欲ゆえに、物質的なもの、あるいは目に見える恵みを求めてしまいます。それは神が求める祈りの成長パターンではありません。 「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6・32-33)。この聖句には祈りのパターンが示されています。クリスチャンは霊的なものを求めて成長していくのです。

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