祈りと主イエスにつながる関係

信仰と善い行いは比例関係にあります。信仰があると言っても口先だけでは何とでも言えます。信仰に伴う行いがなければ、その信仰は無に等しいものだとヤコブは諭しています。
しかし、良い行いの前にもっと重要なことがあります。それは主イエスとつながっていることです。

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。・・・わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。・・・・・あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです(ヨハネ15・1‐8)。

主イエスにつながっていなければ、神のみこころにかなった事は何も出来ないのです。神は、主イエスにつながっているためにクリスチャンに祈りという手段を与えてくれています。日々の祈りを通してクリスチャンは、主イエスから聖霊の力を頂き霊の糧を頂くのです。祈りと信仰の関係は紙幣の裏表にたとえられます。裏表がきちんと印刷されていなければ、役に立たない偽札ですが、悪人には偽札はまたとない悪事を働く道具になります。それと同様に、クリスチャンの日々の生活に祈りがなければ、尊いことに用いられません(2テモテ2・21)。偽札が悪用されるように、クリスチャンも悪魔の罠にかかってしまいかねません。神の良い器として用いられるためにも日々の祈りを持ちましょう。 聖書を読み知識を身につけることは非常に大事なことです。教会での聖書の学びはクリスチャンの成長に重要な役割を果たします。また日々、みことばに接して神のみこころを求めることも必要です。しかし、祈りの生活が充実していないクリスチャンは、パリサイ人のように聖書を読み学びはするけれど、神のみこころをまったく理解できずに終わってしまうことがあるのです(ヨハネ5・39-40)。

聖書を細かく調べて読んでいたパリサイ人は神のみこころを見落としました。だからと言って神のみことばを軽んずることは間違いです。ここでは祈りと聖書を読むこととの関係を考えてみましょう。祈りと聖書を読むことは車の両輪にも例えられると思います。車の片輪がなければ車は走ることができないように、本来、祈りなしではクリスチャンは生きることは出来ないです。それと同時に神のみことばなしでは、クリスチャンは聖なる生活に導かれません。神のみことばに立ち返ることにより、クリスチャンは戒められ教訓を得るのです(2テモテ3・16)。 クリスチャン人生の両輪は祈りと神のみことばです。車のタイヤが破損しては長くは走れないように、クリスチャンも長続きはしません。車は途中で故障してしまうでしょう。クリスチャンも同様です。車が走る道にも高速道路あり砂利道ありで、様々な所を走るように、クリスチャンの人生も困難や苦難な道のりを生きていくのです。そんな時にクリスチャンは、しっかりと地べたに足をつけて神に祈り聖書を読み(車の両輪)、聖霊の力を頂き(エンジンとガソリン)、神によって導かれ成長していくのです。クリスチャンは祈りによって神に寄り頼みます。神に力を生きる力を与えてくださるように求めるのです。また、クリスチャンは神のみことばである聖書を読むことによって神に耳を傾け心の目を開いて聞くのです。この二つの両輪がなくてクリスチャンは前進することも出来ません。むしろ途中で様々な 挫折を繰り返し、主イエスから離れていってしまうでしょう。 上記に示した祈りの生活をKさんはまったく無視して十年間クリスチャン生活を送ってきました。その顛末はまったくの無成長でした。教会の礼拝には毎週出席していて周囲の人から良いクリスチャンと思われていたのです。しかし、それはうわべだけのことでした。Kさんによれば、心の中は葛藤で渦巻いていたそうです。そして葛藤の中から主なるイエスを呼び求めて本当の祈りを発見したのです。平安と愛がKさんに訪れました。  読者の皆様の中にも同じような苦しみや悩みを持っている方はいるでしょうか。祈りの生活を始めましょう。そこからすべてが変わり始めます。

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