聖書は語るー謙遜になろう

皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。(1ペテロ5章5節ー6節)

謙遜になろう。でもこれはただ単に控えめになるという意味ではない。自分は「ダメダメ。何にもないから、何の能力もないから」という遠慮でもない。劣等感でもない。 それでも心の奥底では、自分を誇っているところ、自分の知恵に頼っている自分がいるのだから、人間とは不思議なものである。謙遜になるとは、神に委ねようという意味。神の知恵に頼り神の教えに従う謙遜な心を持ちたい。神の御国と義を日々祈り求め、神に委ねることを覚えたい。心から神にお任せしたい。ちょうど、主イエス・キリストが父なる神に委ねたように。  

1世紀のコリント教会では、神から頂いている自分の賜物に誇りを持っていた人がいた。そこにおごり高ぶりがあった。しかし、「私たち自身には誇れるところがない」のが実際のところだと思う。「誇るのなら神にあって誇れ」という聖書の言葉に真理がある。神から様々な恵を頂き、私は主のために奉仕している。その働きは、主から頂いた賜物の働きである。「主が私を主の器としてお使いになっている」のである。「私のような罪人のかしらをお使いになっている」のである。だから感謝すべきであろう。  

これはクリスチャンであってもなくても真理であろう。ノンークリスチャンの人々も神から様々な恵を受け、能力を頂いている。 それをあたかも自分の物のように思うところに高ぶりがありはしないか。クリスチャンはなおさら神に感謝して崇め日々礼拝すべきだろう。毎日が新しい日だから。新しい心をもって悔い改めの心をもって今日も過ごそうと思いたいものである。

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