五木寛之氏の著書「人生の目的」

目次
1.なぜいま人生の目的か
2.肉親について 
3.金銭について 
4.信仰について 
5.わが人生の絆 
6.学校の絆 
7.青春の絆
8.人間の絆

物書きとしては素人の私が、プロの作家の著書について批評めいたことを書くのはどうかと思いますが、あくまでも聖書の教えと比較させて頂くだけのことです。仏教思想からの人生の目的という意味では、非常に参考になるのではないでしょうか。人生の目的を見つけることこそ、人生の目的であると主張なさる五木氏に賛同する方も多いのではないでしょうか。日本人の感性にあっているような・・・。ちょうど「千の風になって」が日本人の感性にあっているように。しかし、それが正しいかどうかは別の話ですが。この本は幻冬舎で発行されています。お勧めの本ですからぜひ読んでみてください。
五木氏の著書「人生の目的」の結論は、本の最後の「あとがきにかえて」に書かれています。 その重要な結論部分だけをここに引用します。私自身、非常に考えさせられました。

人生に決められた目的はない、と私は思う。しかし、目的のない人生はさびしい。さびしいだけでなく、むなしい。むなしい人生は、なにか大きな困難にぶつかったときに、つづかない。 人生の目的は「自分の人生の目的」をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。変な言いかただが、「自分の人生を見つけるのが、自分の人生の目的である」と言ってもいい。私はそう思う。
そのためには、生きなければならない。行きつづけてこそ、目的も明らかになるのである。「われあり ゆえにわれ求む」というのが私の立場だ。
そして、その目的は、私たちが生きているあいだには、なかなか見つからないのかもしれない。確実に見つかるのは目的ではなく「目標」である。
だが目標は達成すれば終わる。そのあとには、自分は達成した、という満足感が残るだけだ。そして、その満足感も、時間とともに薄れてゆく。そしてやがて単なる記憶に変色してしまう。
しかし、目的は色あせることはない。失われることもない。そこがちがう。
人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものなのだろう。それがいやだと思うなら、もうひとつ、「自分でつくる」という道もある。自分だけの人生の目的をつくりだす。それは、ひとつの物語をつくることだ。自分で物語をつくり、それを信じて生きる。 しかし、これはなかなかむずかしいことである。そこで自分でつくった物語ではなく、共感できる人びとがつくった物語を「信じる」という道もある。 <悟り>という物語。<来世>という物語。<浄土>という物語。<再生>という物語。<輪廻>という物語。それぞれ偉大な物語だ。人が全身で信じた物語は、真実となる。その人がつかんだ真実は、誰も動かすことはできない。うばうこともできない。失われることもない。
しかし、自分以外の人がつくった物語を本当に信じられるためには、そのつくった人を尊敬できなければならない。共感し、愛さなくては、信じられない。だから信仰や宗教は、教義から始まるものではなく、それを信じて生きた人への共感と尊敬と愛からはじまる。
そのことをむかしは「帰依する」と言った。ナムアミダブツの「ナーム」「ナモー」は、「帰依します」という意味である。それは「信じます」であり、「尊敬します」であり、「愛します」でもある。
信仰や宗教は、そこからはじまる。そういう存在が見つかった人は、幸せな人だ。信仰とは求めるものでもあるが、求めて必ず見つかるというものでもない。それは出会うものであり、むこうからやってくるものでもあるのだ。 それは<偶然>かもしれない。運命と宿命の流れのなかに突然に生ずる偉大な<偶然>のはたらきとは、そういうものである。その偶然に出会った人は、そのことを心から感謝すべきであろう。だから蓮如というむかしの宗教家は、ナムアミダブツを「感謝の言葉」として考えたのである。
人はみな、必ずそのような「偶然」に出会う、と考えた宗教家もいた。蓮如に先立つ法然や、親鸞がそうだ。「偶然」がむこうからやってきて、人をとらえる。すべての人を引き寄せようとする。その大きな見えない力を彼らは「他力」と呼んだ。
「他力」が物理的な引力以上の、たしかつの選択肢である。誰か心から共感でき、尊敬でき、愛することのできる人にに出会って、その人に自然についていく、というのが信仰であり、宗教だ。それは良き人との偶然の出会いからはじまる。「帰依する」ということを、頭をささげることというより、「慕わしく思う」「慕うこと」だとわたしは思っている。 わたしがひそかに思っていることだが、本からはいった信仰はつづかない。人からはいった信仰だけが変わらぬ人生の目的となる。
人生の途上で偶然に出会った人がなんとなく好な力になるのかどうかは、それを一途に信じるかどうかにかかっている。愚者のように素直に信ぜよ、と親鸞は言った。トルストイというロシアの作家も同じような立場だった。
信仰や宗教を人生の目的とするのは、ひとましく共感できるところがあったとする。その人の生きかたやただずまいを見て、うらやましく思う。あんなふうに生きられたらいいな、と、なんとなく思う。そして、その人にいろんなことをたずねて、語りあっているうちに、ふと、「自分はこういうことを信じて暮らしている」と控え目に教えてくれた。それに自然と心を惹かれて、自分も同じような生きかたをしたいと思い、もっといろいろ知りたいという気持ちが生じてくる。信仰への幸運な出会いとは、こういうものだろう。信仰も宗教も、結局は人から人へ、肉声と体温をもってしか伝わらないものなのだ。
そのいう人と出会うか、出会わないか。それは自分で決めることではない。求める気持ちを持ちつづければ、必ずそれがかなうとも思えない。それこそが運命であり、宿命というものであろう。いずれにせよ、出会うためには、生きていなければならない。私がくり返し同じことを言いつづけるのは、そのことの大事さだけは分かっているつもりだからだ。

五木寛之氏の要点は次の5点だと思われます。
1.人生の目的は、「自分の人生の目的」をさがすことである。
2.人生の目的は、おそらく最後まで見出すことはできない。しかし、自分の人生の目的を探すためにも生きつづけなければならない。
3.人生の目的を見つけるために、信じる、信仰、宗教という方法がある。
4.人生の目的は、信頼できる他の人の人生観、「物語」を信じて見出すことができる。
5.それが自分自身の真実になる。この真実は誰も奪うことはできない。また失うこともない。

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