五木寛之氏の著書「人生の目的」

わたしの批評

「人生の目的」はおそらく見つからない--これは真実ではないでしょうか。「人生の目的」は自分で見つけるものでもなく、自分で作るものでもなく、与えられるものだからです。

五木さんがお書きになっているとおり一つの目的が達成された後は、それは過去の記憶としてしか残らないのでしょう。目的を達成した後には何が残るのでしょうか。ある人は脱力感だと言いました。

人生の目的を追い求め見つけたと思った瞬間には、それは単なる錯覚だったと気づかされます。ちょうど空の雲を見て「あれが目的だ」と信じて雲がある近くの山の頂上に行ってみると、そこには何もないのです。あるのは空気中に浮いている水分なのです。つかめるものではありません。人生の目的にも同じことがいえるのでないでしょうか。

あるいは、人の話、経験、生き方に共感を覚え、信仰としてあるいは宗教として、そこに人生の目的を見出す事ができると書いておられますが、人が作ったものは立場によって情況によって変化します。果たしてそれが真実と言えるのでしょうか。

人生の目的とは、私たち人間が捜し求めるものではありません。また見つけられるものでもありません。むしろ、与えられるものではないでしょうか。天地万物を創造され、私たち人間を「神に似せられた者」として創造され唯一の神によって与えられるものではないでしょうか。人間の「人生の目的」を定義づけするのは、私たちを創造された三位一体の神にしかできません。私たち人間が愚かにもそれを自分の知恵で求めようとするところにまさに愚の骨頂があるのではないでしょうか。五木さんがお書きになっているように、「人生の目的」を見出す事ができないのも当然なのです。

創造主である神は、それぞれに天地万物に役割と目的を与えたのです。人間も例外ではありません。創造された方が、自分の目的は何だ?と考えてそれを求めていくのはおかしな話です。たとえば、車は走るために製造されました。ところが、車の方が「いや自分の目的は自分で探す。もっと他にあるはずだ」と言っても見つからないのです。

私は聖書の教えによってこれを説いていますが、人はこれを宗教とおっしゃいます。実はこれは宗教でも何でもないと信じています。実は、人間本来の人生の生き方であり人生そのものではないでしょうか。読者の皆さんが、「人生の目的」を求めているのであれば、ぜひ聖書を読んでみてください。イエス・キリストがどんな方であるかを知ってください。

もちろん、五木寛之氏の「人生の目的」と読み比べても結構です。むしろ読み比べた方が聖書の御言葉が真実性がより明らかになるでしょう。イエス・キリストはすべてにおいて真実を語っています。この方を信じましょう。「人生の目的」はすべてイエス・キリストから教えられるのですから。

聖書ーキリストは人生を変える サイト内検索 グーグル

Designed by CSS.Design Sample