旧約聖書の矛盾ー間違い?

旧約聖書を学術的に学ぼうとする人が最初に手にするのが資料説についての本です。資料説は、簡単に言えば、旧約聖書はいくつかの資料、それも違った年代に書かれたものや言い伝えなどから、最終的に編集して書かれたものであると説いています。創世紀1章と2章も例外にもれず、その資料説の枠組みに入っています。1章1節から2章3節(簡略のため#1と呼びます)まではP資料から引用されたものと考えられ、2章4節ー25節(#2と呼びます)まではJ資料から引用されたものと考えられています。#1も#2も神の創造について書かれていますが、主に次の3つの相違点があると言われます。

創世記1章、2の真偽

1. #1は非常に格式を重んじて順序良く書かれています。さらに科学的な点についても説明しているようです。一方、#2は子供に話す寓話にように書かれています。
2. 創造の順番が#1と#2とでは違うと主張されます。(#1植物ー>動物ー>人間、#2男ー>植物ー>動物ー>女)
3. #1では神に対して ’elohim(直訳すると神) と呼んでいますが、#2では yahweh 'elohim (yahwehは神がイスラエルに啓示した契約の名前)と違った名前で呼んでいます。

この真偽について私の見解を4つ紹介します。
ます。第一に、創世紀が書かれた頃、違った資料があり、著者がそれを使った可能性は否定できませんが、これは人間の説にすぎない事も認識すべきでしょう。J資料とP資料の違いを見つけるのは、ある一部の聖書学者が主張しているほど明確ではありません。たとえばP資料と定義されるところにyahwehの名前が出てきたり、その逆の場合もあります。旧約聖書の話の中でそれぞれの出来事を分析し、それがどのように書かれたのかを知ろうとする事に価値はあります。その学びにおいて人間的な目から真偽を見つけて考察する事も大切な事だと思います。しかし、真偽であるかどうかを考えるよりは、むしろ著者が初期の読者に何を伝えようとしていたのか考察するほうがもっと重要だと思います。これが聖書を読む方の最初にすべき事でしょう。一部の現代聖書学者がしようとしている事は、聖書を精密機械のように分解して、現代人の観点から組み立てようとしているのです。これは聖書の理解の妨げになるばかりか、多くの人々に誤解を招く元です。むしろ、今ある私たちに与えられた聖書、神の啓示がどのように私たちの暮らしに適用できるか考えるべきだと思います。

第二に、創世紀が書かれた文化的背景ですが、創世紀が書かれた頃と同時期に、現在の中東地域(メソポタミヤ)にも他の創造の記録が考古学の分野で発見されています。しかし、それらの創造の記録には多くの神々が存在し、人はヒーローの殺された血によって創造されたと記されています。人は神々に供え物をあげて、神々はその供え物によって生き長らえていたのです。神々は人間と同じように自然の力に頼り、また神々の間では人間と同じように争い事が絶えませんでした。このような文化背景の中で人々は神々を偶像礼拝していました。このような文化の中では、現代人が考えるような真偽については無関心でした。これに反して、創世紀は真実の神が天地万物を創造し、すべてを支配している事を啓示したのです。そこには神の絶対的な権威と神が創造された天地万物の目的が記されているのです。これが創世紀1章−2章の意味です。ゆえに、私たち現代人が聖書を読んで真偽と思われる事は、けっして当時最初に読んだ人たちには真偽とは感じられなかったでしょう。

第三に、文学的な面から検証してみましょう。創世紀の中で前の出来事を総括する時に使われていることばがあります。英語のアルファベットで書きますとtoledhothということばです。これは経緯、系図、歴史などと訳されています。2章4節でも次のように訳されて使われています。「これは天と地が創造されたときの経緯である」。ここだけの個所を読みますと、「1章のまとめ」と読んでしまいます。しかし創世紀全体を読みますと、これは著者の文学的な技法であることが理解できます。創世紀では、(この場合ヘブル文学と呼ぶのが妥当でしょう)このような技法が多くみられます。参考までにtoledhothが使われている聖句は、2章4節(天地創造)、5章1節(アダムの歴史)、6章9節(ノアの歴史)、10章1節(ノアの子の歴史)、11章10節(セムの歴史)、11章27節(テラの歴史)、25章12節(イシュマエルの歴史)、25章19節(イサクの歴史)、36章1節(エサウの歴史)、37章2節(ヤコブの歴史)です。いずれの場合も、各世代の歴史をハイライト的に要約しています。創世紀1章と2章では、著者は1章の創造の歴史で記されていなかったこと、つまり人間=男女の創造にハイライトをあてて2章で書いているのだ思います。

第四に、科学的な観点から見た場合、創造の出来事の順序や太陽が出来る前に植物があったことなどの疑問が出てくるのは当然でしょう。それを自分の主観的な見方から、クリスチャンにせよ、聖書から間違いを見つけようとしている人にせよ、自分自身の推測をあたかも事実かのように語ることは愚かな事だと思います。ある人たちは、聖書を科学の枠組の中にはめようとします。その逆に、ある人たちは科学を聖書の枠組みの中にはめようとします。もし聖書と進化論の間に真偽があると思うなら、それは私たちの聖書の解釈が間違いであるか、自然科学(神が創造された天地万物を理解しようとする試み)の解釈に間違いがあるかどちらかでしょう。

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