神の国に生きるー心の貧しい者

神の国に生きるー心の貧しい者は幸いである

の国に入るための初めの一歩を、今日は考えてみましょう。

5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

ここで「心の貧しい人々」とは、心が卑しいという意味ではありません。心が満たされていない状態を指しています。自分に誇れるものは何もないような心情です。逆を言えば、自分の心が満たされ幸せだと思っている人には、キリストの言葉は何の魅力も感じないでしょう。自分には誇れるものなど何もないことを認める、このへりくだった気持ち、態度が神の国に入るための初め一歩といえます。

この概念を端的に説明しているたとえ話をキリストは次のように言っています。

18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18章)

自分がどれほど正しい人間であるかを神に主張しても、神は喜びません。私たちがどれほどよい行いをしているかを、神は見ているのではありません。神の御国に生きるとは、善い行いで点取りゲームをして競い合っているのではありません。神は、私たちの善行を観察して点数を付けているのでもありません。むしろ、私たちの心、態度を見ているのです。心からへりくだった態度、自分の罪悪を認める心を神は私たちに求めています。このような態度を持っている人を、神は約束どおり祝福してくださいます。善行は、このような信仰をもっていれば、おのずと実践されるのです。

今日も神の愛によって生きましょう。

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