ヨハネの福音書ーバプテスマのヨハネ

さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。・・・そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」・・・彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、"霊"が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(ヨハネ1章19節ー34節)  


ヨハネは、「私はキリストではありません。・・・ イエスは私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」と証言している。 自分が自分がという世の中で、スポーツ観戦から学ばされる事は多い。たとえば、サッカー。11人の一人一人が自分の役割を理解しているチームは強い。確かに、メッシやロナウドのような優れた選手がいるチームは、その一発逆転の脅威をもっている。しかし、いくら一人のプレーヤーが個人技に優れていても一人ではサッカーは出来ない。一個人のすばらしいシュートもそこにパスを出す人がいるから出来る。

このチームプレーの精神は、神から召されるという事に当てはまる。ここにヨハネという人がいる。彼は臆することなく自分の役割をはっきり言う。しかし、自分の能力以上のこと、与えられた役割以上のことをやりたいという欲望がある。自分が自分がという世の中では当然のことか。人はこれを向上心と呼ぶ。われわれが言う向上心とは、勝手な思い上がりかもしれない。他の人を省みずに自分を高めるだけを考える人間の性である。 神を信じる初めはへりくだる心から始まる。自分には誇るものもない。むしろ、どす黒い罪の心が宿っていると認めるしかない。

「私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」これはヨハネの信仰告白でもあり、また罪の告白である。 ヨハネは自分の働きに目を向けずに、神の子でるイエス・キリストの働きに目を向けた。これが人に求められている態度であろう。人は自分の良い行いや働きに目を向けて優越感をもつものである。私たちはヨハネの良いお手本に習ってみよう。素直で謙虚な気持ちでイエス・キリストの話を聞いてみよう。素晴らしい恵みをイエスは私たちに与えてくださるから。
2013年12月7日(土)

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