ヨハネの福音書ー命の光

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。 このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1章1節ー4節)
 

もう何年も前のこと。ある著名な作家がラジオでの「子供電話相談室」で「蚕はなぜ桑の葉しか食べないのですか」という質問に次のように答えていた。「それはね、ちょうどパンダが笹の葉しか食べないのと同じでね、そのように造られているんだよ。」 無論、この作家はクリスチャンではない。しかし、そのようにしか説明できないのも事実であろう。子供たちへの答えが終わった後、ある別の回答者が「蚕は桑の葉で出来ているんでしょう」と言った。それに反応して「それはたとえという意味ですよね」とアナウンサーが答えた。「いやそうではない」と その生物学者はおお真面目に反論する。「蚕は桑の葉を食べてたんぱく質、脂肪、糖といった各栄養素に変えていく仕組みを体の中に持っているんだよ。だから蚕は桑の葉で造られていると言っても科学的にいいんですよ。」  

神は天地万物すべてを創造された。イエス・キリストはそのすべての創造の過程において父なる神と共にいた方である。人は神の創造を認めても神ご自身を認めようとしない。イエス・キリストを認めようとしない。この方にいのちがある事も知らない。むしろ、人は自分の能力でいのちを発見しようとしている。人は暗闇の中にいる事さえ知らないのである。だからこそ、私たちは光が必要だ。光が照らされるまで、私たちは、その暗闇がどんなに暗いかを知らない。神様、私たち一人一人に光を照らしてください。イエスの名によって、アーメン。

 

  上記の聖句には、「ことば」と創造、いのち、この世の人々との関係が書き記されている。天地万物が「ことば」によって創造された。「ことば」によって人にいのちが与えられる。「ことば」によって神の子供としての特権を与えられる。それでも、この方の民は「ことば」を信じなかった。彼の親兄弟でさえ信じなかった。私たちも同じ状態であろうか。  

  スポーツ選手の中に、肉体改造といって自分の体を鍛えなおして、別人のように強くなった、生まれ変わったと聞く事がある。しかし、悲しいかな、その肉体もいずれはまた衰える。  本来、生まれ変わるとは神様によってなされるものである。いずれ衰える肉体を鍛えて生まれ変わったとは言えまい。心が生まれ変わらずに何になろうか。明るい方へ、光がある方へ歩いて行こう。主イエスとともに歩いて行こう。そこに力の源があるから。  

この福音書の中は、主イエスを信じる意味、主イエスによって生まれる意味を切々と私たちに語り続けてくる。このいのちのことばを心から聞ける耳を持ちたいものだ。聞く耳のある者は聞きなさい、と主イエスは私たちに問いかけているから。

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