十字架はファッション・アクセサリーの一つになってしまっているようです。十字架(クロス)はキリスト教がこの世に影響を与えた物の中で特にファッション性の高いものです。本来の意味からかけ離れ一人歩きをするようになりました。十字架はネックレス、ピアスなどのデザインの一つとして考えられています。どこの宝飾店に行っても十字架のデザインのものはあります。このページでは十字架の文化的背景を学び本来の意味を説明します。

十字架の歴史的背景

十字架とは、そもそも古代ローマ帝国において犯罪人を死刑に処するための、もっとも痛みを伴った方法でした。 十字架は大きな2本の木、また板を十の字に括り付けて造られます。 死刑囚はその十字架を担ぎ、処刑場まで行き、十字架を横たえます。死刑囚は横たわった十字架の上に寝るような形になります。 両腕を横に伸ばし、手が十字架の横棒に縛り付けられ、釘が手に打ち付けられます。 そして足は縦棒の下に縛り付けられるか、または釘が打たれます。
この状態からその十字架を文字通り十字に見えるように立て上げて、地面にその十字架を打ち付けるのです。 このようにしますと、十字架に打ち付けられている人は、胸を持ち上げなければ息が出来なくなります。 手には釘が打ちつけられていますから、自分の胸を持ち上げるには、想像を絶するの痛みを伴います。この残酷な痛みと共に死刑囚は生き絶えていくのです。

旧約聖書の預言とイエス・キリストの預言

旧約聖書にはメシヤ(キリスト)がイスラエルの民のために犠牲になると預言されています。この旧約聖書の預言どおりにイエス・キリストは十字架上で処刑されたのですが、実はその処刑の2年程前からイエス・キリストも十字架の死を預言していました。神様の永遠の救いの計画は預言によって人々に示されましたが、人々は信じなかったのです。それはイエス・キリストの十字架の意味を理解できなかったのです。この預言どおりにイエス・キリストは、人の罪のためにいけにえとしての死を自ら進んで選んだのです。 イエス・キリストが処刑された記録が新約聖書の福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)に記されています。 上記の聖書を読む限り、物質的な十字架には何ら力がないようです。 なぜならイエス・キリストと共に他に2人の囚人が十字架上で死刑にされているからです。しかし、これで終わりではないのです。イエス様は死から3日後に復活されたのです。

イエス・キリストの十字架の意味

(1)イエス・キリストの十字架は、神の子イエス・キリストが人の罪のために死んだという証です。イエス・キリストの十字架は、神に仕える者になるための道しるべを信じる者に与えます。人は、いつの時代でもどんな社会や国でも、自分自身の地位や経済的な安定を求めます。 これは人の一つの本能と言っていいでしょう。その本能に従って、結果的に人は自己中心的に生きているのです。その人の本能とまったく逆の行動をとったのがイエス・キリストでした。イエスは人のために仕えるため、人の罪のための贖いの代価として十字架上で死んだのです。 これは、今これを読んでいるあなたの罪のために死んだということです。

(2)イエスの十字架は、人に仕えるという究極の意味です。
イエスは、十字架の死によって身をもって仕えるという事はどういうことか弟子たちに教え、今もまた私たちに教えているのです。 これをまた違ったことばで言い表すのなら、次のようになるでしょう。イエス・キリストの十字架は、神の御前で人が謙虚になり神に従う手本を示しています。 
クリスチャンは自己中心的に生きるのでなく、謙虚になり人に仕えることを覚え、イエスが十字架上で死んだように神に従うのです。 しかし、「神の子であるイエス・キリストがあなたの罪のために死んだ」とは、信じていない人は馬鹿げたことだと思うかもしれません。

十字架の言葉は、自分を高めようと考えている人には確かに愚かな言葉です。しかし、イエス・キリストを信じて豊かな恵みと憐れみを受けたキリスト者には、十字架の言葉は力であります。この世の知者、学者の言葉は、神の愚かさに比べても戯言に過ぎません。学者はすべてをわかっているような話し方をしますが、実は360度全角度から見られない限界があるのです。その意味では360分の1しか知らないとも言えるでしょう。イエス・キリストはキリスト者の知恵の大元であり贖い主であり、唯一の人生の師であり先生です。

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