聖書的視点 わたしの日本人論ーグループ意識と個人主義

聖書には、人は自分の責任において物事を選択していくという基本原則が教えられています。この意味での、「個人主義」は正しいとわたしは思います。しかし、グループ意識が強い日本人には、この個人主義の概念が伝わっていないのが現状でしょう。1960年代、1970年代、わたしが育った頃、日本では西洋文化(特にアメリカ文化)の影響で個性や自由が強調されていました。しかし、個性や自由には常に責任が伴うということを日本人は忘れていました。(アメリカかぶれしていたわたしも例外ではありません。)

日本には、責任の所在が明らかにならないようなエアポケットのようなものが存在します。政治、経済、一般社会のどんな組織においても、日本では説明責任が非常に曖昧になりがちではないでしょうか。(一番端的な例として、理研のSTAP細胞問題があるでしょう。)過剰なグループ意識が、個人の責任逃れの場、隠れ蓑になってしまうのです。あなたも、あなたの身の回りの組織において同じような経験をしたことはないでしょうか。

個人の自由と責任を表現している言葉があります。イエス・キリストの言葉を聞いてみましょう。

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。(ルカ9章23節ー25節)

イエス・キリストは、わたしたちに選択の余地を与えてくださっています。「もしあなたがついて来たいなら・・・」この言葉を聞いている人々、一人ひとりが自分の責任においてどちらかを選ぶのです。「他のみんながやっているから・・・わたしもやろう」とはいえません。選ぶ自由もあり選んだ責任もあるのです。キリストの言葉は個々の人に語りかけられています。ここにグループ意識が入る余地はありません。この個人主義と責任感が、日本においても仕事の場にも生かされます。

しかし、日本には、大きな見えない壁、文化の壁がまだまだあります。役職についている人が、ある組織の中で重大な決断をするときに、その人はグループとして決定した責任と自分の決断の責任を区別できているのか、日本のグループ意識の中では難しいでしょう。日本人も激動の世界の中で生きていく中で、食習慣や生活習慣を西洋化に変えていくのではなくて、考え方そのものを変える必要があるとわたしは思います。

2014年5月22日(木)

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