神の存在と人間の偶像礼拝

神の存在は人間たちには明らかなのですが、多くの人たちが(ほとんどの日本人が)唯一の神の存在を認めていません。そればかりではなくて、人間たちは自分自身の栄光を求めてあたかも自分たちの力ですべてをコントロールできるかのように生きています。私たちが生きていくための空気の恩恵も自然の恵みの恩恵も忘れています。

なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。(ローマ1章19節ー25節)


これはいったい何の事を言っているのでしょうか。この聖句が書かれた1世紀の時代にも多くあった偶像礼拝の事を指しているのです。多くの日本人の方が今でも神社仏閣でお祈りしています。さらに神社仏閣にちなんだ様々なお祭りが日本各地にあります。(伊勢神宮では20年に一回行われる式年遷宮が2013年10月2日に執り行われました。)
偶像礼拝は、古今東西、どこにでもあります。人間は造られたものを、たとえば太陽、星、木々、山を拝むようになったのです。それらを造った方を拝まないで造られた物を拝むのはおかしな話です。懐中電灯を借りて懐中電灯にお礼を言うでしょうか。むしろ懐中電灯を貸してくれた人にお礼を言いませんか。申命記4章16節ー19節を読みましょう。

真実なる神は生きておられます。すべてを目的をもって創造されました。私たち人間も神のかたちとして造られたのです。本来、その神を畏れ敬うのが私たち人間の務めなのです。 イザヤ44章9節ー20節を読みましょう。偶像礼拝とは自分で造った物を拝むのです。自分自身を拝んでいるとはいえないでしょうか。偶像には何の力もありません。あたかも力があるかのように人は言いますが、しかしそれは悪魔によって騙されているのです。真の神を信じましょう。人間は神に似せられ他の動植物とは聖別されて創造されたのですから、本来は神の栄光を現すために存在しているのです。神の知恵である愛、平安、喜びをもってお互いに助け合い支えあって生きていくべきなのです。ところが現実は神の教えに背き常に争いごとを好み、人を人と思わぬような言動をとっています。逆にいえば人間の罪の深さを知れば神の存在も納得できるのではないでしょうか。

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