教派の根源

それではなぜ教派が出来てしまったのでしょうか。パウロは教派が出来る事を次の聖句で預言しています。

神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。 4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(2テモテ4:1−4)


聖書の真理から離れ、自分勝手に、または自分の都合の良いように聖書を解釈して、人々が集まる時代がくると言っています。このような時代はすでに来ましたし、人間たちが悔い改めない限り続くでしょう。ですから、結論を言いますと、現在の教派は人間の罪ゆえに誕生したのです。パウロがエペソの教会の長老たちに別れを告げる時に次の様なことばを言っています。

私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。20:30 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。(使徒行伝20:29−30)


上記の聖句は、クリスチャンの中から、間違った教えを語るものが出てくると言うのです。外部から間違った教えが入ってくるのではありません。教会の内部から分裂分派が起こるのです。初期の教会からこのような事は起きていました。そして今、何千というクリスチャンと称する異なったグループが、異なった信仰を持っています。これは明らかに神様のみこころではありません。

教派と人間の愚かさ

次の聖句で、パウロは「信者の中のりっぱな人につく」ような行いの愚かさを説いています。1コリント1章11節ー13節を読みましょう。「誰それにつく」と言っていること自体、聖書的に言いますとおかしな事です。「キリストにつく」と言っている人の中には、もしかしたら悪い意味でのプライドを持って言っている人もいるかもしれません。キリストは分割されたりしません。誰か有名な牧師によってバプテスマを受けたからといって、特別な恵みがあるわけでもありません。そのような考えこそ分派分裂を招くのです。

ある神学者の人間の名前をとったり、ある一部の有名な教理からとったり、または教派の創設者の信仰からとったり、教派には様々の名前がありますが、人の教えや伝統をあたかも聖書の教えであるかのように扱った結果がキリスト教の分派分裂になったのです。本来、クリスチャンが先生と呼べるのはイエス・キリストだけです。イエス自身が次の様に言っています。 マタイ23章8節ー12節を読んでみましょう。

ここでイエスが言っていることは非常に解りやすく、言っているままに従えばいいのです。クリスチャンの間に上下関係はありません。それにも関わらず、上下関係を作り出したのは人間たちなのです。多くの教会では、教会のために奉仕している方を牧師先生と呼んでいます。また、ある教会では、祭司と呼ばれる人々の中には数限りない序列関係があるようです。このような事は、神のみこころではありません。

なぜ教派があるのか?

最初、教会はひとつのはずでした。しかし、2−3世紀頃からカトリックという権威的な教派が生まれ、キリスト教の異端と言われる人たちも出てきました。宗教改革によって多くのキリスト教の指導者たちは、カトリック教会によって生まれた弊害を正そうとし、聖書的な教会へと改革をしようとしたのです。(詳しくは、カトリックとプロテスタントの違いをお読みください。)

しかし、宗教改革が終わると、人々はこのような考えから離れてしまい、いつしか自分達も人間的な決まりと伝統を作り、信者たちを縛り付けてしまったのです。結果的に宗教改革から多くの教派が生まれてしまいました。(この過程でクリスチャンの間で宗教戦争が行われたことは悲しい事実です。)確かに神は、宗教改革のリーダーたちを導き動かしたと思われます。しかし、そのリーダーたちが死んでしまった後、その良い概念は失われてしまったのです。悪魔は、人間を権威、権力、名声という誘惑に駆り立て「分派分裂を起こせ」と言う罠をいつの時もはっています。クリスチャンはこの様な罠にはまるべきではありません。

「この教会はカトリックですか。それともプロテスタントですか。」と聞かれる事がよくあります。実際、答えに困ってしまいます。カトリックでもないプロテスタントでもないクリスチャンになりたいと思います。ある神学者の人間の名前をとったり、ある一部の有名な教理からとったり、または教派の創設者の信仰からとったり、教派には様々の名前がありますが、人の教えや伝統をあたかも聖書の教えであるかのように扱った結果がキリスト教の分派分裂になったのです。本来、クリスチャンが先生と呼べるのはイエス・キリストだけです。(マタイ23章8節ー12節) イエスが言っていることは非常に解りやすく、言っているままに従えばいいのです。クリスチャンの間に上下関係はありません。それにも関わらず、上下関係を作り出したのは人間たちなのです。多くの教会では、教会のために奉仕している方を牧師先生と呼んでいます。また、ある教会では、祭司と呼ばれる人々の中には数限りない序列関係があるようです。このような事は、神のみこころではありません。しかし、憐れみ深い神は、教派を作ってしまったクリスチャンたち、諸教会に深く関わり恵みを与えているのも事実です。だからこそ、すべてのクリスチャンはへりくだるべきだと私は思います。

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