真のリーダー

教派の現実について考えてみましょう。教派とは人間のリーダーについて行く事から起こります。ひとりの人間をあたかも神のように扱う事から始まります。ある宗教的なリーダーの名前、またはその信仰の根元になぞらえて、教派の名前がつけられる例が多くみられます。ほとんどの場合、その宗教的なリーダーは、教派をつくるつもりなどなかったのですが、そのリーダーが死んだ後にリーダーの弟子たちが教派を起こしたのです。死んだリーダーはもういません。しかし、そのリーダーの信仰を、あたかも聖書と同じように大事にして長い年月の間にその教派の伝統が出来て、変えられない信仰になってしまいます。その信仰を聖書が教える信仰として、その教会の信仰の案内として書かれています。信仰のリーダーは死んでしまいますが、イエスは今でも生きています。聖書は次の様に証言しています。

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル13:8)、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12:2)

信仰のリーダーは、主イエス・キリストとするべきです。これが聖書が教える信仰です。上記の聖句が示すように、イエス・キリストが信仰の創始者なのです。キリスト教の歴史の中には、多くのすばらしいクリスチャンがいます。その方々はたくさんの本を書いたり、有名な話しを残しました。人々を啓蒙し、励ましたすばらしいリーダーであったでしょう。しかし、彼らは人間に過ぎません。イエス・キリストは神の子であり、私たちの罪のために十字架に付けられた唯一の救い主です。その方は今、神の御座に着かれているのです。その方から目を離さずにいなさい、とこの聖句は言っています。

教派が起きた後に、長い年月を経て、教派の伝統というものが自然と出来てきます。その伝統はもう変える事が出来ない、その教派の文化の一部になってしまいます。人間の伝統の上に建っている教派の教会と、聖書が教えている教会は違います。教派は人間の考えが根元にありますが、聖書が教える教会は神のみこころが根元にあります。
それでは正しい教派はあるのでしょうか。既に説明しましたが、教派は人間の罪ゆえの産物にすぎません。そうしますと結論は、「正しい教派などありえない」と言う事です。どんな教派でも良い事を行なっています。神様の教えに部分的に従っています。しかし、その良い行いがその教派を良しとする事にはなりません。この分派分裂の原因は、私たち人間の方にあります。

では、現実の多くの教派の教会が、どんな形で主である神と関わっているのでしょうか。当然、そこには神の支配があります。恵み深い慈悲ある神は、人間の罪ゆえに生まれた教派にいる人たちでさえ祝してくださいます。神はクリスチャンの分派分裂を見て悲しんでおられます。イエスが祈ったようには、クリスチャンの一致はありません。それでも神はクリスチャンを祝しておられるのです。そこには神の支配と権威があるからです。分派分裂を起こし、そのような教会にいるクリスチャンを祝するのも神ですが、そのような人たちを裁くのも神です。

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