1コリント 8章、10章の説明

もし聖書をお持ちであれば新約聖書1コリント8章、10章を読んでみましょう。出来ればプリントして手元で読んでいただければ、落ち着いて考える事が出来るかもしれません。

コリントの手紙の背景

コリントは紀元前数百年前から栄えた貿易港をもった商業都市でした。アテネから西へ数十キロのところにあります。またコリントは、アテネと共に古代ギリシャでは、多くの偶像が造られた町としてもローマ帝国全土にその名をとどろかせていました。そんな所ですから偶像礼拝は住民たちの生活の一部であったのです。つまりギリシャの神々の信者ではない人たちでも、普段の生活の上においても何らかの形で「神々を崇める宗教」に関わるざる得ませんでした。 たとえば、偶像に捧げられた肉が、食用の肉として市場で売られているという状態です。ギリシャ宗教を信じている者にとっては聖なる肉です。誰もがそのような肉を買う事が出来たのです。コリントのクリスチャンたちもこの肉を買う事も出来ました。しかし、彼らはその肉を買うべきか迷ったのです。コリントのクリスチャンは、改宗する前にほとんどが偶像礼拝をしていたのでしょう。だからこそ彼らの迷いもより強かったのかもしれません。 実際にパウロはコリントで宣教した時、何人の異邦人たちはクリスチャンになったのです。その後パウロは彼らと手紙をやりとりをして、彼らが直面している数々の問題について知らされコリントへ手紙を書きました。偶像礼拝はその問題の中の一つで、パウロは主に8章、10章で取り扱っています。



1コリント 8章

パウロは、コリント教会における偶像礼拝の問題が争いの種の一つになっている事を知っていたので、最初に警告ともいえる言葉でコリント教会の人たちを諭します。人は自分が知っていると思っている知識によっておごり高ぶったりすることがありますが、パウロはこのような態度は愚かな者のすることであると言及します。むしろ愛によって人の徳を高めなさい、人の信仰を高めるようなことをしなさい、と言うのです。 コリント教会には偶像に関する限り2種類のクリスチャンがいたようです。

1.偶像は単なる物質に過ぎず、偶像の神など存在しないと認識していたクリスチャン、2.改宗前に偶像礼拝をしていて、改宗後もまだ偶像に対して多少の信仰を持っているクリスチャンでした。 実際にパウロは偶像に捧げられた肉を食べても何の得にも損にもならないと明言します。それは偶像の神などいないからです。しかし、このような知識をもっていないクリスチャン、または本当の神様への信仰がまだ弱いクリスチャンは、まだ偶像の前では誘惑の罠にかかっていたかもしれません。信仰の強いクリスチャンが偶像の宮で偶像にささげられた肉を食べているのを信仰の弱いクリスチャンが見たらどうでしょうか、とパウロは問いかけます。当然、信仰の弱いクリスチャンはもっと迷ってしまうでしょう。さらに偶像礼拝に戻ってしまうかもしれません。 ですからパウロはもし他のクリスチャン、イエスのある兄弟姉妹につまずきを与えるのなら、偶像に捧げられた肉は決して食べないと断言します。

1 コリント 10章

10章ではパウロは偶像礼拝の罪深さを主の晩餐に関連付けてコリント教会のクリスチャンに説明します。(注:9章は使徒パウロの自由について書かれています。10章もクリスチャンの自由について偶像礼拝と関連して書かれています。9章は8章と10章のつなぎの部分と言っても良いと思います。) 最初にパウロは旧約聖書を引用して偶像礼拝の愚かさ、さらに神様の裁きについて言及します。イスラエルの人々は神様の恵みを受けていたにもかかわらず、神様の教えに逆らって滅ぼされてしまいます。その恵みの根源はイエス・キリストその方であるとパウロは明言します。彼らが神様の裁きを受ける理由は、彼らが生ける神様を礼拝していても、同時に偶像礼拝にふけっていたからです。 パウロは、「この例からわかるように偶像礼拝を避けなさい」と戒めます。生ける神様は私たちを主の晩餐に招いてくださいます。その晩餐と共に偶像を礼拝する事は不可能な事なのです。クリスチャンがもしそれを行おうとすれば、神様はイスラエルに与えた同じ裁きをクリスチャンにも下すのです。偶像礼拝は悪魔によってだまされた人たちがつくったものに過ぎません。偶像其のものには何の力もないのです。それを拝む事が悪魔の技なのです。悪魔は偶像を拝む事によって何か力が与えられるかのように人に思わせます。 市場で売られている肉の中には偶像に捧げられた肉が含まれています。パウロは偶像に捧げられたかどうかは問題ではないと明言します。なぜなら偶像はただ単なる石や木などといった物質に過ぎないからです。もし偶像に捧げられた肉と知ったら、自分の良心のためではなく、それを知らせれくれた人の良心のために食べてはいけないです。 クリスチャンがすることは何事も自由ですが、人の徳を高めるような事をすべきです。人のつまずきになるような事はすべきではないのです。これまで理解した事を仏教式のお葬式に適用してみましょう。
日本人社会に当てはめて考えると・・・1コリント8章と10章の適用

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