キリストの十字架とバプテスマの意味

イエス・キリストは十字架につけられ死にました。 これはバプテスマと深い関係があります。バプテスマによって、象徴的に人は罪に対してキリストと共に死んだのです。さらにバプテスマによって象徴的に、人は死からよみがえったのです。バプテスマは、人間がつくった儀式ではありません。そこに神様が働いていらっしゃるのです。

イエスの名によってバプテスマを受けるとはどういう意味でしょうか。 次の2つの聖句はこの意味を説明しています。ローマ6章1節ー11節を読みます。

人はイエス・キリストの教えに従い弟子になることを決める時、バプテスマを受けます。 これは神によって定められたイエス・キリストへの信仰告白を神に示す手段です。バプテスマによって人はイエスと共に死ぬ時、自分自身の罪に対して死ぬのです。 そして、神の力によってイエスと共によみがえるのです。そして、キリストを身に着たものとしてクリスチャンになるのです。 バプテスマにおける全身全霊が水の中につけられ引き上げられる様は、死、つまり埋葬とよみがえりを象徴的に表しています。 これを単なる儀式だと思ってはいけません。神はバプテスマを受ける人の信仰告白をみて、人間の本来の姿に戻った従順な子供の誕生を喜ぶのです。

しかし、バプテスマを単なる儀式に過ぎないとして、クリスチャンになるためには必要がないと理解する人もいます。 そのため、このような人にとっては、バプテスマはすでに信仰によって救われた者が行なう、形式的なものに過ぎないのです。

3:21 この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。(1ペテロ3章21節)

上記の聖句は、この様な考え方が間違いである事を示しています。バプテスマはイエス・キリストへの信仰を父なる神へ告白する時なのです。 人が神を神として礼拝し「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神である主を愛す」ことを誓う時なのです。 バプテスマにおけるこの信仰告白に基づいて、神はイエスと共に罪に対して死んだ人をイエスと共によみがえらせるのです。

罪の赦し

さらに、バプテスマを受けた後、人は2つの恵みを神によって与えられます。 第一に、人の罪は赦され、罪の重荷から解放されます。信じる者に神は次の約束を与えました。「神は、イエス・キリストの血によって信者の罪をもはや覚えない、罪は赦された」と約束されました。罪の呪縛、罪の重荷からの解放を約束されたのです。十字架につけられた罪と欲望の思いはクリスチャンの心からなくなり、その代わりに聖霊によって満たされるようになります。

聖霊

第二に、神はその人が人生を正しく生きるように助けるために、神の子供としての認証として神の霊(聖霊)を与えます。 その結果として、神はバプテスマを受ける者を教会、イエスのからだの一員とします。聖霊についてはもっと詳しく書きます。

12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。(1コリント12章13節)

からだとは教会を指しています。 イエスにあってクリスチャンは1つであるべきです。バプテスマはそのような目的で神が定めたことです。 イエスの名によってバプテスマを受ける時、イエス・キリストの教会、つまりイエスのからだの一部になる事を誓う時でもあるのです。

最後に補足ですが、、、。「救われるのはバプテスマの前でしょうか。つまり信仰を持ったときでしょうか。それともバプテスマの後でしょうか。」という質問がされ議論されることがあります。しかし、この質問自体が愚問です。もしバプテスマの前といえば、人間の権威によって救われたと宣言していることになります。イエス・キリストの命令を無にしていると言われても仕方ありません。
ではバプテスマの後と言ったらどうでしょうか。バプテスマを人間の業にしてしまっています。律法的に従えば救われるという考え方に結びついてしまいます。救いは、神に属するものです。私たち人間の力や権威によってなされるものではありません。

聖書ーキリストは人生を変える サイト内検索 グーグル

Designed by CSS.Design Sample